コラム

先生と呼ばれる

(自民党メールマガジン平成18年7月7日配信)

一般公募に応募をし、合格通知を頂き2005年4月、京都府第2選挙区支部長に就任したのが29歳の春だった。選挙区支部長というのは事実上、党の衆議院選挙立候補予定者になる。しばらく活動している間に30歳になり、それから間もなく郵政解散が起き、選挙戦に突入し、あれよあれよと言っているうちに当選をし、現在は、31歳の衆議院議員である。

31歳の若輩とは言え、周りからは「先生」と呼ばれる。それを嫌がる議員もいるようだ。他党で何人かの議員が集まって「先生とは呼ばないでほしい」と記者会見を開いていた。何だか随分くだらないことをやっているなぁ、と当時学生だった私は、その会見のニュースを観て思っていたのを覚えている。

現在は、自身が「先生」と呼ばれる立場になっている。実際に呼ばれてみてどうかと言えば、確かに変な気はするが、逆に言えば、それだけしっかりとしていなければならないと解している。「先生」と呼ばれるには、それなりに意味があり、また、そう呼んでいる方にも意味があるのだと思う。

選挙を経て国民からの信託を受けている以上、それに応え得る人間という意味において議員というのは、「先生」と呼ばれるのだろう。そして、呼ぶほうとしては、そう呼びたい、或は、そう呼んでおけば、間違いが無いとか、色々理由はあるのだろうが、「先生」と呼んでくる。

それを「先生と呼ばないで」と言うのは、実は、その意味や責任の重みから逃げているのではないか、と思えてくる。私自身は、「先生」と呼ばれる度に、それに見合うような議員になるように、そして、負託に応えられるように、もっと精進しようと自身を鼓舞するようにしている。「先生」と呼んでいる人たちに、わざわざ「先生と呼ばないでほしい」などと言う必要は全くない。要は、そう呼ばれて自分自身がそれにどのように応えるのかが本質的な問題だと思う。

これからも「先生」を否定せず、それに応えられるように真面目にしっかりと活動していきたい。