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対日講和条約調印50周年記念式典に思う

2001年8月執筆

サンフランシスコ講和条約と日米安保条約の調印から、9月8日で50年を迎えた。これを記念して同日、東京や米サンフランシスコで記念式典が行われた。戦後50年以上、日本が戦争当事国とならずに平和と安定を維持し繁栄を享受できたことは幸福なことであり、それに多大な貢献をしたのは、良好な日米関係だと言っても過言ではない。戦後の日米関係は、このサンフランシスコ講和条約から始まった。この式典において、田中外相、パウエル国務長官の両外相は、「世界の平和と繁栄に貢献する共通の努力の強化を再確認する」として日米同盟強化を誓う共同宣言に署名した。また、講和条約50周年にあたって注目を集めていた元米兵捕虜問題に対してパウエル氏は、「賠償問題は議会にも法案が出ているが、ブッシュ政権は戦後処理問題は(対日請求権を放棄した)サンフランシスコ講和条約で解決済みとの立場を維持していく」と述べ、賠償問題は決着済みとの考えを表明した。

あまりにも過酷であった米国に存在した強制収容所。

この記念式典において共同宣言がなされ、賠償問題にも再度解決の意思が表明され、50周年の祝賀ムードを盛り上げたが、ここで思いをいたすのが、日系アメリカ人強制収容所の問題である。日本軍が真珠湾を攻撃して以後、米国政府は、日系アメリカ人を米国国防への脅威と見なした。1942年2月19日、ルーズベルト大統領は大統領命令第9066号を制定し、この大統領命令を根拠に1942年から46年まで、十二万人を超える日系アメリカ人が全米十数か所の強制収容所に収容された。米国で生まれた人はすべて、米国憲法修正第一四条により米国市民としての権利を有することが出来る。両親が外国人であったとしても出生地が米国であればよい、にも拘らず米国政府は、日系市民を危険分子として扱い、彼らを「市民(citizens)」とは呼ばず、「非外国人(non-aliens)」という奇怪な名で呼び、強制収容所(Concentration camp)を転住収容所(Relocation camp)と呼び換え、監禁したのである。その対象は、日本人を祖先とするすべての人々(十六分の一以上日本人の血を引く者)、乳幼児も身体障害者も老人も例外にはならなかった。これは同時期のドイツで行われていたユダヤ人に対する強制収容の規定(八分の一以上)より厳しいものであった。

それらの収容所は荒野や砂漠または、湿地帯など厳しい自然環境に建設され、夏は酷暑、冬は厳寒であった。例えば、たとえば、アイダホ州ミニドカ収容所は最高43℃/最低零下32℃、ワイオミング州ハートマウンテン収容所は最高37℃/最低零下40℃、と記録されている。また、アーカンソー州ジェローム収容所は、周囲を多くの毒蛇が棲息する沼地に囲まれており、監視塔や有刺鉄線、そして金網すらいらなかったそうである。 当時の日系アメリカ人達の苦悩に満ちた過酷な生活は想像に難くない。しかし、この監禁生活から脱出する方法が一つだけあった。軍隊への入隊意思を示し、戦場に赴くことである。親族が監禁されている強制収容所から出征するというのも奇妙な話しである。

“あたって砕けろ!”はただの言葉ではなかった。

しかし、日系人部隊は米国が想像もしなかったほどの戦果をあげた。日系人部隊の主なものは、第100歩兵大隊、第442連隊、そしてハワイ諸島での非戦闘工事と保全管理プロジェクトに従事する第1399工兵大隊(優れた行動と記録的な業績、そしてひときわ優れた任務への献身により、勲功賞銘板受賞)。1944年に第100歩兵大隊は第422連隊に合併された。彼等のモットーは“Go for Broke!”(あたって砕けろ!) であった。だが、それがただのモットーではなかったと言うことを彼らはその戦歴で証明している。もっとも有名な作戦は、「失われた大隊」の救出であった。ドイツ軍によって第141歩兵連隊から分断されテキサス州兵第一大隊「失われた大隊」を見事救出したのがそれである。211名のテキサス州兵を救出するために第442連隊は800人以上の死傷者を出すという、激戦であった。彼らは最終的に7回の大統領部隊感状(Presidential Unit Citations)、そして、1個の名誉勲章(Medal of Honor)、52個の(青銅の)殊勲十字章(Distinguished Service Crosses)、1個の殊勲章(Distinguished Service Medal)、588個の銀星章(the Silver Star)、22個の殊勲章(Legions of Merit)、5,200個の青銅星章(the Bronze Star)、12個の軍功章(Croix de Guerre)、9,486個の名誉負傷章(Purple Hearts)を含む18,143の個人勲章を受勲している。ここまでくると、経歴詐称などで大きなニュースになるほどのあの銀星章(the Silver Star)ですら輝きを失ってしまいそうである。言うまでも無く、この第422連隊は、その2年にも満たない従軍期間と部隊規模からして最も多くの勲章を受勲した部隊として米軍史上に輝いている。それでも、日系人部隊であると言うことから当時は正当に評価されていなかったのである。

話しが、若干横道に逸れてしまったが、本稿で述べたかったのは、日系人が強制収容所で屈辱的な生活を強いられたことでも、日系人部隊が熾烈を極める戦地に派兵され必死に戦っても正当な評価を受けなかったことでもない。不幸なそれらの歴史的問題に対してもいつか何かしらの解決が図られ、その後は、その一連の不幸な問題を振り返るのではなく、前を向いて歩くべきだと言うことである。

1980年7月、カーター大統領が「アメリカ市民の戦時移住および強制収容に関する委員会」を設置する法律に署名した。同委員会は第二次大戦中、日系アメリカ人が受けた不当な取り扱いの被害の詳細を調査するため、81年7月以降に10回公聴会を開催し、750人以上の証人の証言を聴聞した。 そして1983年6月、同委員会は“Personal Justice Denied”と題された467ページから成る報告書を提出し、第二次大戦中の不当な処遇の被害者で生存している人々、約6万人に1人一律$20,000の補償金を支払い、加えて国として謝罪するべきである、と米国議会に勧告した。 それから5年後、1988年8月、レーガン大統領が日系アメリカ人補償法に署名。強制収容から約50年後の1990年9月、同法に基づく補償金の交付が始まった。

また、2000年5月12日、クリントン大統領は、元第442連隊の19人が受勲していた(青銅の)殊勲十字章を名誉勲章へと格上げすることを承認した。これらの処置によって一連の問題は、一応の解決を見たと言ってよいであろう。

既に解決済みの戦後補償問題。

今回のサンフランシスコ講和条約と日米安保条約調印50周年の記念式典では、南京大虐殺で負傷したと証言する中国系女性が、この記念式典に対して抗議を行ったり、サンフランシスコ市では、約300人の中国系住民らが日本の戦争責任を糾弾する集会などを開いたりもした。彼らは、同時に小泉首相の靖国神社参拝や教科書問題など最近の日本の動きにも避難の声を向けた。

しかしながら、1972年の日中共同声明(日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明)において中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言している。また、韓国とは、それよりも早く、1965年に日韓基本条約(日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約)を締結し、戦後問題には一応の決着をみている。また、村山首相は首相談話において痛切な反省の意と心からのおわびの気持ちを表明している。そして小泉首相も談話の中で先の大戦における犠牲者全てに対して深い反省と哀悼の意を述べると共に、今後のアジア地域における平和と安定のために尽力することを誓っている。

「失われた10年」という言葉に象徴される日本経済の凋落は見るも無惨であり、「構造改革」を掲げる小泉内閣は、景気対策と改革断行の板ばさみ状態にある。現在も異常とも言える小泉人気は、小泉内閣への高支持率をもたらしてはいるが、政権の正念場にあるのは間違いない。他方、アジア地域を見れば、一応の決着をみているとは言え、不幸にも先の大戦で我々は様々な問題を今もって抱えている。しかし、後ろばかりを振り返るのではなく、前も見なくてはいけない。我々がいくら勇猛果敢に戦ったとしても「失われた10年」を救出することは出来ない。過ぎ去った時間を取り戻すことは出来ないのである。また、戦後補償問題においても既述の通り、一応の解決を見ている。我々は、前を見なくてはいけないのである。アジア地域は、欧州に比して平和と安定に関して不安定な要素が存在する。小泉内閣には国内の「構造改革」だけに留まらず、中国や韓国、そして、他のアジア諸国との対話の機会を創出し、ASEANへの積極的参画やARFで平和国家日本がどのような貢献が出来るか明確にするなど、アジア地域の更なる平和と安定のための「構造改革」にも着手して頂きたい。そして、首相談話での決意をこれからの日本のためアジア地域のためにも是非とも実現してもらいたい。

憲法を改憲・改正してはいけない。

また、アジアを一歩出て国際社会を見れば、日本の唯一の同盟国米国が断じて許すことの出来ない非人道的なテロ行為によって大勢の犠牲者を出した。今、その米国への同時多発テロに対する日本の支援策に関連して、憲法が禁じる集団的自衛権行使をどのように扱うか、政府・与党内で憲法改正か憲法の枠内かをめぐる論議が噴出しはじめている。

集団的自衛権に関しては、日本の軍国主義への回帰や右傾化を懸念して慎重論がしばしば叫ばれるが、集団的自衛権が行使できないと言っている国は、世界ひろしと言えども日本だけである。自国が集団的自衛権を保持しているけれども行使できないと政府方針として掲げている国は日本しかない。その観点からすると内閣法制局の解釈は間違っていると考えられる。従って、憲法を改正する必要は無いし、してはいけない。なぜならば、論理的でないものを正すのに憲法を改正してしまえば、今までの内閣法制局の憲法解釈を認めることになってしまう。権利として保持しているものは、時と場合によって行使できるのだ、ということを確認するのに憲法の改正など必要ない。

一方で、集団的自衛権の行使を認めるにしても他国の領土内では絶対に行使出来ない、という制限を設けて集団的自衛権の行使を認めるという議論があるが、そこにも本質的な問題点は見当たらない。権利と言うものは有るか無いか、そして行使できるか行使出来ないかであって、それをどのように管理・運営するかは政策レベルの話しであって、憲法解釈の問題ではない。

そして、この議論においては、もっぱら行使を認めるか否かの議論がなされているが、それもまたナンセンスである、と私は考えている。つまり、重要なことは、既述のようにいかに集団的自衛権を管理・運用していくかが、問題なのである。現在の集団的自衛権の議論を見ている限り、論点を著しく逸脱しているように思えてならない。

今もって内閣法制局は、集団的自衛権の行使を認めてない。日本が国連安保理の常任理事国入りを含めて積極的に国際貢献を果たしていくことを考えた際、集団的自衛権の現行解釈は大きな足枷となるのは必至である。もちろん、日本が集団的自衛権の行使を発動するのは、日本の軍国主義への回帰や右傾化を目指すのではなく国際的社会に貢献する際に、必要最小限の条件なのである。しかし、その管理・運営方法を間違えれば、新たな国際的な敵を生み出すだけになる。故に、憲法解釈に慎重になるのではなく、集団的自衛権の管理・運営方法にこそ慎重な議論が必要なのである。

未曾有の同時多発テロに見舞われた米国は、今回のテロ行為に対抗する世界規模の連合を構築することを目指し、同盟国だけでなく各国に呼びかけている。日米安保条約調印50周年のこの年に、日本が英断をもって集団的自衛権の行使を認め、米国とともにあの非人道的テロ行為に対し、立ち上がったとき日本は、はじめて真の同盟国となり、国際社会の一員に成れるのではないだろうか。

軍事的報復行動のジレンマ。

他方、報復行動とはいえ暴力行為は、あくまでも暴力行為でしかない。テロと同様に暴力は何も生み出しはしない。暴力は殺戮と遺恨を残すのみである。それは歴史が証明している。今までの米国がそうであったようにただ軍事的報復行動に出るのではなく、新しいテロには、新しい対処方法を模索するべきである。軍事的報復行動は、華々しく米国に勝利をもたらし、米国の失われた権威を取り戻すであろう。だが、それと引き換えに新たな犠牲と更なるテロをもたらすことは想像に難くない。

日本は、戦後一貫して平和国家としての道を歩んで来た。それは、現代社会において高く評価されるに値する。今後も日本はその精神を貫き、広く国際社会に平和と安定を象徴する国家として歩むことが出来るのである。そして、日本は、同盟国として米国に軍事的報復行動とは別の対応策を提案できうる立場にもある。従って、一時の感情で国際紛争を武力で解決するという安易な道を選択することを回避することが可能なのである。これもまた、日本の取り得る解決策の一つである。もちろん、テロ行為に対する怒りと犠牲となった罪の無い人々に対する哀悼の気持ちを忘れてはいけない。

断じて許すことの出来ない非人道的なテロ行為によって、既に宣戦布告がなされてしまったが、我々は、決してあの野蛮で粗野なテロリストたちとは違う。我々には考える能力と取り得る選択肢が残っている。

ブッシュ(ジュニア)大統領には、父親(シニア)同様に戦争という解決策を選ぶのではなく、新しい道を世界に示してもらいたい。それが、今唯一の超大国である米国の指導者としての彼の役割ではなかろうか。そして、そのために日本はどんな協力も惜しまないであろう。

2001年8月執筆

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